ちゃちゃっとベナンから北に位置するニンビンへ。ベトナム旅行第5都市目。ベトナムは日本と同様の縦長国土。南はホーチミンから入り中部のフエ・ダナンを経由し北部へ入る。ベトナム後編といった感じ。
本日のFeeling Radio
記事のBGMにどーぞ。
Monk Montgomery -『Fuselage (Part II)』
ベナンからニンビンへ移動する心持ち
日本に見立てて調べて見た。すると鹿児島から金沢・新潟を経由して福島県の会津若松市くらいの距離。約1520キロ。馴染みのある日本に置き換えると、なんとなく移動距離がつかめる。すげぇ移動している気分。置き換えはお金も一旦日本円に直して考えちゃうし、言語も同じ。まだまだ『日本』という感覚を大きな判断材料として旅している感じ。
移動は少しだけ緊張感というか気を張っていることが多い。と言うのも日本じゃありえないと思っていることが起こるから。目的地でもない訳分からないところに行く可能性、パンクやトラブルが起こる可能性、事前情報と違うシチュエーションなる可能性。頭の中でこねくり回す。
よく『予想も想像もつかないことが起きる』と聞く。ならば、悪いことをあらかじめ思いつく限りの予想と想像をしておきましょうと。そうしたら先手必勝で起こらないんでしょ!って言う勝手なおまじないの他に、スマホの地図アプリで自分の居場所を確認しながらバスで進む。確実に目的地に向かっているねって言う『安心』がしたいがために見る。これだけで簡単に落ち着く。ビバ先端科学。
予想外を予想してあとは楽観
今回も予想外に事前予告なくバスの乗り換えがあった。いきなりバスが止まり、運転手の横にいた私服のベトナム人が大きな声を出す。すると乗客はいそいそと降りるので雨の中一緒に降りて行く。最初は乗り換えなのか、トラブルなのか、自分だけ目的地が違う人なのか分からない。
日本の様に過剰なアナウンスで情報が勝手に耳に入ってくると言う国は少ない。旅での情報はこちらから取りに行かないと分からないことが多い。気が小さい僕はこれだけでもちょっと不安。でも自分の居場所が分かっていればどうにかなるかな?と言う楽観的な部分もある。アッツい国なら外で寝ても死なないしなくらいの。
乗り換えも無事に済ませ順調に北上。目的地のニンビンには早朝5時ごろ着く予定。が、運転手さんの好ドライビングで早朝3時に到着したと叩き起こされる。むにゃむにゃ状態で下車。あたり真っ暗。。。
『アイヤ〜』と思いながらも行く場所がないのでまずはホテルへ向かう。時間も時間なのでチェックインできればラッキー。僕がこれまで泊まって来たホテルは謙虚に言っても安ホテル。一泊4〜5ドルが目安。24時間警備やずっとフロントが開いているなんて事は少なめ。今回はラッキーで入宿。楽観。
ニンビンの街巡り
バスの疲れを昼寝で取ってからお昼頃ニンビンの街を散策して見る。
まぁ、綺麗な街といった印象。ゴミがほとんど落ちていない。ベトナム自体周りの東南アジア諸国と比べて綺麗ではあるけど、ニンビンはもっと綺麗。この街は世界遺産的な風景があることで有名な街なので、人が住んでいる街自体にはあまり特徴がないかな。
移動式パーク
その辺をプラプラしていると面白いものを見つけた。僕は勝手にこれを『移動式パーク』と呼んでいる。
普通に見たら植木を買って帰る、または単純に植木の移動販売という事なんだろう。ベトナムらしくバイクにくくり乗せて。でも遊びでここに一つ『見立て』を入れて見る。『販売目的じゃないとしたら』と。他国の異文化の中、多様な宗教や価値観も相まったら無い事は無いぞと。
もし仮に、これらのバイクに満載の木々たちを売らずにただ走り回ってるだけだとしたら、だいぶ前衛的な人だなと。もしかしたら木々を乗せて非生産的にただ走り回るっていう純粋な行為かもしれない。私利私欲思惑算段コントロールがない感じがカッコいい。
この移動式パークが停車した半径50メートル圏内は交通ストップ。子供が自由に遊びまわれるセーフティーな公共の場となっちゃうみたいな。移動式の公園。移動式パーク。しかも公園と言う人が勝手に動かせないと思い込んでるものを動かし運び経済活動に乗らずにただ癒しを振りまくって言う行為だったら。。。資本主義に乗らない感じもカッコいいじゃないか。なかなかヤベェなアイツとなる。
何をモチベーションに行なっているかはともかく、人がこぞって求めるモノ以外の何かしらで満足を満たせる人は、はなかなか豊かな人だなと思う。そう思うとなんだか興奮を覚える自分がいる。この形態は別の街でも見た。
『見立て』の歴史と効用
『見立てる』はちょっと面白い。この何かに何かを『見立てる』とは、簡単に言えばある物を別の物に置き換えて代用すること。気付けば歴史的にも昔からやってる。古事記や枕草子などの文学は元より、お寺の庭にある枯山水は大自然どころか宇宙を見立てている。雑器だった楽茶碗や茶の価値を見立て生み出した千利休。『見立て』は日本的でもあると言えそう。
海外ではマルセルデュシャンのレディーメイドもビートルズのサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドもレヴィ=ストロースのブリコラージュもお笑いやエンターテイメントも全て『見立て』がキーワード。
この『見立て』は、上記の様に文学でも、建築でも、音楽でも、現代アートでも、文化人類学という学問においても、お笑いでも、全て見立てが入って来ている。どうやら『クリエイション』とか『創作』と言う世界では『見立て』と言う行為は重要な要素の一つの様だ。ちなみに旅も人生に見立てられたりするし。
この、ある物を別の物に置き換えて代用する『見立て』という手法。もっと簡単に言えば『見方を変える』『捉え方を変える』と言う事で、別の視点を持つと言ってもいい。平面だけではなく多角的・立体的に捉えた方が空間を広く捉えられる。その自分の中に内包している空間は現実世界の土地的空間と違い、限界が分からない。故に無限。と思っちゃえばいい。思うにその内的空間・世界が広い方が人はある意味豊かなんじゃないだろうか。
出来事が起こる。その状況、事象、あらゆることに対してあなたはどう見ましたか?どう捉えましたか?どうお見立てしましたか?と、現実側が問いてくる。それに対して、各々個人が答えを出し、それが発言となり、行動に移っていく。それがその人をその人たらしめて行くわけで。なのでどう見立てるかはその人のセンス。センス良くありたいものです。
路上観察学!ミスター見立て屋!
僕が思う『センスがすげぇいい人』を一人だけ。それが尾辻 克彦 こと赤瀬川原平さん。例えば、路上にある無為・無用の物件に対して『見立て』を入れることで、別の新たな面白さの価値感を見出して『路上観察学』とかって言って写真採集・研究をやっちゃう人。発見する視点も才能みたいな。これが面白い。
それと、年寄りを意識し出す年齢になった赤瀬川さんは、年齢と共に訪れる身体的・精神的変化を『老人力』と言って価値観をひっくり返す。筋肉の様に『老人力』がついて来たと言って、新たに備わった自分のNEW能力として受け取り、『老い』に対して新たな価値観を産んで見たり。2014年に惜しくも故人となられた。
最後に、ライカ同盟を作るほどご自身も好きだったカメラに対して言った『見立て』を。
『カメラは獲物めがけ射止めて収める「猟銃」である。散歩は狩猟採集の原点へとさかのぼる。(略)カメラを片手に現代人を狩猟採集民へ』
僕はこの考えを恥ずかしげもなく完全に取り入れている。受け身じゃなく捕りに行ってる感じ含め。宜しければどーぞ。
(買ってくださいね!ではありませんからね。気になる方は『良かったらどーぞ精神です』)
また『見立ては』お金がかからないからいい。オレみたいな貧乏人にとってはもっといい。今すぐにでもできる簡単クリエイション。空間拡張遊び。でももし、この世界自体が誰かの都合のいい、冗談みたいなでっかい『見立て』演出をされていたらコエェなと思う。そんな『見立て』のススメでした!
了
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